GW旅行inタイ10~死の鉄道 Forgive But Never Forget~
5月4日(土)
8時30分頃 起床
エアコンが効きすぎていて寒かった.
別棟の食堂で朝飯を食べる.朝飯は鍋に入っているおかゆのようなもので薬味が置いてあり自由にかけられた.食堂はエアコンが効いていないが風通しがよく気持ちよい.
宿の写真.雰囲気が好きだ.手前の像はシーサーみたい.
9時 宿出発
チェックアウト時に受付のおばちゃんに今日も泊まりたい旨を伝えると,突然誰かに電話を始めてその旨を自身で伝えてくれって.しかもビデオ通話.よくわからんお姉さんにもう1泊したい旨を伝えた.もともと,現金が不足していて2泊分の料金を払えなかったことと,1回ぐらいホステルに泊まろうかと考えていたことがあり2泊分予約していなかったが気に入ったのでもう1泊することに.予約が完了すると,なぜかいきなりおばちゃんに手を取られて,インカメでおばちゃんとのツーショット(笑).この人は俺の写真を何に使うんだ(笑).面白いおばちゃんだ.おばちゃんにタクシー呼ぶか聞かれたが,歩いていくから断って宿を出る.またいつものごとくサイクリングしようと思っていたのであるが,自転車屋がどこにあるかわからなかったので,バイタクの運ちゃんにうまく伝えられる気がしなかったので歩いて探すことに.
線路を超えて,大通りを超えてレンタサイクルのお店があると思われるカンチャナブリーの安宿街を目指す.道がよくわからなかったので,横の路地に入る.
路地をしばらくく進んだところで,いきなり道端の犬にほえられる.そして犬はこちらに近づいてくる.わかるだろうか.全速力ではない,少し体を斜めにしながらすぐに後ろに逃げられるような体制を取り背中を丸めながら近づいてくる感じが.一匹が吠えると,他の犬たちも路地に出てくる.すでに後ろはふさがれた.路地は見た感じ,500m以上の直線で脇道はない.そうなると路地を前に進むしかない.これから進む先にも吠えた犬の声を聞いて林の中から出てきた犬が路肩におり,こちらをにらんで吠えている.総勢10匹から15匹ぐらい.本当に血の気が引いた.犬達は威嚇しながらこちらへ向かってくる.俺は歩きだ.犬をまくことなんてできない.人間は本能的に危険な時に取るべき行動がわかるのであろうか.犬は逃げるものに追いかけてくるなんて習性を知らなかったが,平静を保つふり(笑)(心の中ではヤバいよヤバいよ状態)をしてそのまま歩いた.近づいてくる犬に対しては
”がおっ”
ってヤンキーがやるようなポーズで威嚇をしながら犬を追い払う.俺は危険が迫るとそんな声を出すということには実はミャンマーのバガンの時点で気が付いていた.”おい”とか”来んな”みたいな人間語ではなく,動物っぽい声を出すところに俺の野獣に理解いただきたいという切実な気持ちがあることをわかってほしい.そんなやり取りを2分程し,何とか100m程度の野犬エリアを抜ける.しきりに後ろを振り返り,犬が来ないことを確認する.奴らは,100m近く先からも道路の真ん中に立ちこちらを警戒して見ている.犬が来ないことを確認すると,肩の力が抜ける.そして,狂犬病...とつぶやいてみる.タイでは狂犬病が残っていて毎年観光客も数人が死ぬらしい.この犬事件は自分の中でかなりのトラウマとなり,これ以降
”目的地 犬”
で検索するようになる(笑).後でブログを検索すると,東南アジア旅行者はこうゆうシチュエーションに慣れている人も多く,”わんこバトル”なんて言っているブログもあった(笑).すごすぎ.
犬エリアは調べてみたら,Google mapのストリートビューもあった.
Google mapより.赤枠で囲んでいるエリアで犬が10匹程度の群れで威嚇してきた.ストリートビューを見ると,やはり犬がいる(写真赤丸).地図を見ると一本道で逃げ場がない.
写真奥に行くと犬エリア.なぜか道端にある,筋トレ道具.まだ,犬に襲われた路地であるがここまでくると,犬がいる気配もないので安心.
10時過ぎ 自転車屋にて自転車を借りる.
自転車がある通りは完全にゲストハウス街でバーなどが立ち並び,白人が屋外の席でのんびりしている.自分でチャリ選んでいいって言うからマウンテンバイクみたいなごついやつを選ぶ.
10時10分頃 連合国共同墓地着
よく整備された広大な敷地に整然と墓が並んでいる.6982柱の霊が眠るらしい.この墓は戦時中に日本兵により泰緬鉄道に動員され,命を落とした連合国軍の兵士が眠っている.今の平和な青い空の下のこの美しい墓地には,信じられない過酷な労働で命を落とした人が眠っているのだ.過去のことではあるが,日本人としては入り口で祈るだけで一歩も足を踏み入れられなかった.というか入ってはいけないと思って自重した.
10時半過ぎ 泰緬鉄道博物館(Death Railway Museum)
墓地のすぐ隣にある.入館料は外人料金で150バーツ.
写真中央に映る.地球の歩き方には"Thailand - Burma Railway Centre"と英語表記があるが建物の表面には,"Death Railway Museum And Research Centre"と大きく書いてある.中は写真撮影禁止であったので写真はないが,どれだけ泰緬鉄道建設が過酷であったかが記載されている.覚えている限りのことを書く.
※2か月以上前の話だし,英語表記であったし,記憶で書いているので間違いも多い.
<概要>
戦時中に日本軍がタイとミャンマーまでの区間に建設した泰緬鉄道は過酷な労働環境のため多くの現地人,連合国捕虜:POW(Prisoner of War)が犠牲になった.
<背景>
タイとミャンマーを占領した日本軍はミャンマーへ物資を運ぶためにシンガポールから海路でヤンゴンまで運んでいたが,海路で運ぶのは敵の空襲に会いやすく,リスクが大きかった.
<目的>
ミャンマーまでの物資の安全な運搬.
<課題>
イギリス?がミャンマーを占領していた際にも同じ区間に鉄道を作る計画を立てたが,川や山などの過酷な自然環境から計画段階で頓挫した経緯がある.その時イギリスが試算した建設工期は5年であった.
<働き手>
狭い小屋のような電車に乗せられて,カンチャナブリーにやってきたシンガポールのオランダ人,オーストラリア人捕虜たち(POW)や現地のタイ人で,数万人単位であった.
<環境>
ジャングルの中で実施された建設現場ではマラリヤや,コレラ等の疫病に感染するような不衛生な現場で医療品の不足,過酷な労働環境で多くの人(数万単位)が亡くなった.
<完成>
2年半ほどで完成した.ただし突貫工事であったため,事故も多かった.
<クウェー川鉄橋>
日本の軍の力が弱まって来ていたため?空襲の対象となった.特に,ジャングルの中でも難所であり,さらに木々がないため標的となりやすいクウェー川鉄橋が幾度となく破壊されたが,破壊されるたびに日本軍は鉄橋を修復させ,鉄道を使用した.
<戦後>
日本降伏後は鉄道は使われなくなり(というか連合国により使えなくされたと記載されていた気がする.),現在ではトンブリー駅(バンコク)~ナムトック駅(カンチャナブリーのさらに奥)まで運航しており,クウェー川沿いの急峻な崖をくりぬいた桟橋個所やクウェー川鉄橋が観光地となっている.
なお,クウェー川鉄橋があるのがカンチャナブリーである.この博物館には労働者の人形や犠牲者の残した手紙があり,胸が痛んだ.一方で,当時日本軍が書いた鉄道駅図などが残っており興味深くもあった.特にクウェー川鉄橋に関しての簡易的ではあるが設計図なども置かれており貴重であると思った.
日本人が見ると,5年もかかると言われイギリスが諦めた鉄道をその半分の工期で作って”日本すげぇっ”てなるのかもしれないが,それ以上に多くの犠牲者を出したことに目を向けなくてはいけない.そもそも日本人はここでは一人も会わなかったし自分自身ここに来るまで,死の鉄道について一切知らなかった.過去の人の罪を謝る必要はないかもしれないが,それは過去の人の罪を知ったうえでのことであるのかもしれない.いずれにせよ,日本人はアユタヤーのよく知りもしないパコダの前でインスタとってないで,クウェー川鉄橋のことを学ぶなど過去のことを学ぶ機会を増やすことが必要かと感じた.そもそもあまり知られていないのは日本の教育に問題があるのかもしれないが.そして自分にそんな素晴らしいことができているかと言われると...だけど.
12時前 泰緬鉄道博物館発
博物館では多くを学んだ.忘れてしまったことも多い...悲しいな.
この日は一日カンチャナブリーで特に時間に縛られるイベントはハイライトのクウェー川鉄橋見学を夕方にすること以外なかったので,のんびりと回る.
クウェー川を渡り,カオプーン洞窟を目指す.水上住宅がある.
カオプーン洞窟ははずれにあり,多分普通の人はこちらまでチャリでは来ないが,気合で頑張って行く.藪の中から犬が出てこないか不安(笑).地元の人たちが庭でバーベキューをしているところを見てほほえましくなった.
12時30分頃 チョンカイ共同墓地
街のはずれに突然現れるチョンカイ墓地.町はずれにあるにもかかわらず,きれいに整備されている.空は青く,雲は低くて鮮明だ.ずいぶん自転車をこいできたのでここで少し休憩.
12時40分頃 カオプーン洞穴着
チョンカイ共同墓地からの道のりは坂道もあり非常にしんどかった.入り口の子供のモンクにお金を払いカオプーン洞穴に入る.
金を払って洞穴までの通路.短冊みたいなものが飾られていて美しい.自分のすぐ前に入ったタイ人女性2名を除けば閑散としている.タイ人の前にはなぜか子供のモンクがガイドみたいな感じでついていた.
洞穴の入り口.入り口前に犬が寝ており,ビビった.おばあちゃんがすぐそこの椅子に座っていたのでちょっとだけ安心感があった.洞穴はかなり深い.地球の歩き方によると戦時中は日本軍が倉庫として使用していたそうだ.
降りるとすぐ小さな空間があり,仏像がたくさん置かれている.俺も,旅の安全と結婚について仏像に祈る.
天井を見ると鍾乳洞であることがわかる.洞穴内は涼しく,灼熱の中自転車をこいでいた自分としては心地よかった.旧日本軍も65年前にここで涼んでいたのかなぁと空想する.
洞穴は意外と広くゆっくり歩いたら15分程入っていたようだ.
洞窟を出た後にさらに敷地の奥に道がつながっていることに気が付き,そちらにチャリで気合で登っていくと,クウェー川が見渡せる丘に出る.
カンチャナブリーも田舎なんだなぁということを感じる.クウェー川の美しい流れと山と草木.日本兵もこの景色を見たのだろうか.のどかで,心が休まる場所であった.写真中央には宴会船みたいなのが映り爆音でドンスカドンスカ音楽を鳴らしながらタイ人を乗せて去って行った.タイらしくてほほえましい.
太っちょのブッダもずっとこの丘から見える景色を眺めている.
下に降りると,この時は気が付いていなかったが泰緬鉄道.閑散としており,一人で景色を眺め続けた.写真奥に見えるトンネルみたいな個所も山を人力で崩したのだろう.写真手前側にも同じような崖を切り崩した個所があった.
日本でやったらDQN.わしはまだ26歳だから.
13時20分 カオプーン洞穴発
ノリで来たけどなんだかんだ楽しめたカオプーン洞穴を出発.
泰緬鉄道カオプーン駅を超えて町中に戻る.素朴な駅だ.周辺に民家はないが人は乗るのだろうか.
ミミファーム.こんなところに日本語が.この後も出てくるが,カンチャナブリーはタイの中でも日本人がいたことがわかるような街であった.
ここからはクウェー川鉄橋に向けてひたすらチャリをこぐ.途中で雨に降られ,名もない工場の屋根で雨宿りをする.バイクのカップルも同じところで雨宿りをしていた.雨宿りを終えると,(ずっと探してはいたのだがなかなか見つからなかったため)時間もかなりいい時間になっていたので大通りの食堂に入る.
14時 昼飯
40ぐらいのおばちゃんが一人でお店を切り盛りしているようなローカル食堂で,おばちゃんがピリピリしてて少し緊張した.こんなローカルな食堂なのに,メニューと言えばちゃんとEnglishメニューをくれるのがすごい.メニューを見て指をさして注文.しばらくすると,おばあちゃんみたいな人が多分水のことを聞きに来るが,ウォーターすら通じない.水は十分あったので必要なかったが言葉が通じず,なんか1Lの水を頼むことに(笑)
ご飯自体は昨日カンチャナブリーのバスターミナルで食べたやつと同じやつ.面白いのは,万能ねぎみたいなやつが,コップに入って出されている.どのように食べるのが正解かはわからないが,メインを食べながらかじった.斬新ではあるが,すごくいい感じで日本に帰ってからもトライしようと思ったほど(笑).メインのご飯は糸を引いていた.これヤバいんじゃねとは思いつつも,食べてみたら腐ってる感じなんて一切しなくて超絶美味!ということで完食!(多分だけどこれで次の日俺は腹を壊した.)
遅めの昼飯を食べた後はお金をおろすことに.他人のブログを読むとBIG CなるスーパーにATMがあるとのことで,そこで金を下ろすことに.ミャンマーで苦労してから海外キャッシング枠をクレジットにつけておいてよかった.なんて楽にお金を引き出せるんだ!7000円(2000バーツ)程引き出す.(もっと降ろしておけばよかった.)このスーパー,飲食店で日本系レストランが入ってて面白かった.
Oishi Ramen.日本より少し安い程度.
やよい軒!なんとここは日本と価格が変わらない(笑).やよい軒,東南アジアにあること知らなくてびっくりした(笑).
当日の宿泊費も手に入れて現金不足状態を解消し,元気になったところでクウェー川鉄橋を目指す.
途中の踏切で,電車が通るところを見る.人力で踏切のスライドの柵を閉めていた.一日に精々10本程度しか通らない電車が見れるなんてラッキー.
14時40分頃 クウェー川鉄橋着
自転車を止め,クウェー川鉄橋見学へ.
駐車場からのクウェー川鉄橋.記憶があいまいで合っているかわからないが橋の柵が丸くなっている個所は日本軍が作成した当初のまま.中央の台形の柵になっている個所は空爆で落とされてしまい復旧した箇所.戦時中の土木構造物がこうして今も生きていることは非常に素晴らしい.
橋は完全に観光地となっているので多くの人が渡っている.電車が来ているときでも橋の待避所があり,そこに避難するそうだ.ここでは家族ずれの日本人が数人いた.それでも日本人は少ない印象.
対岸.線路は続く.このままずっと行くとカオプーン駅にたどり着く.戦時中,重機もない中で犠牲者を出したとはいえ,こんな橋を造った日本人を誇らしいと思ってはダメなのだろうか.素晴らしいとしか思えない.
クウェー川鉄橋見学の後は,すぐ隣にある第二次世界大戦博物館に行く.地球の歩き方には個人の手で作られたと記載されているが,そんな感じの建物で,戦争と関係ないものが多く展示されている.空の色は怪しく今にも嵐が来そうな湿った風が吹いていた.
上記のように無駄なところもあるがこの博物館は戦時中のクウェー川鉄橋に関する多くの写真等も展示されており,必見.特に,敷地内のさりげなく特に何のアピールもなく展示されている,橋の一部は何と実際にクウェー川鉄橋を作る前の試作らしい.
これは70年近く前に作られたものらしい.今にも振り出しそうな雨の気配を昔の人も感じてたのだろうかと感傷的な気持ちになる.
しばらくすると案の定雨が降る.第二次世界大戦博物館の隣の日本軍建立の慰霊碑の前の東屋で祈りながら図々しくも雨宿りをさせてもらう.
16時前 クウェー川鉄橋周辺を去る.
JEATH戦争博物館を目指す.夕立がやまない中,雨の弱くなったタイミングを見計らって途中雨宿りをしながら進む.朝に借りた自転車屋を通り過ぎ,30分近くかけ,JEATH戦争博物館にたどり着く.
16時30分 JEATH戦争博物館着.
寺院が隣にあり,ほぼその敷地内にある小さな博物館であった.今まで見てきたような悲惨な歴史が語られていた.日本人であれば必見.JEATH= Japan,England,America and Australia,Trailand ,Holland(オランダ)
今日初めて日本語のパンフレットを目にする.この博物館で印象的な言葉を見る.
”Forgive But Never Forget”
カンチャナブリーの夕暮れ.鳥肌が立つ.何万人の人が犠牲になっても,許してくれるのか.本当は,もっとぼろくそに言ってくれても構わない.なんて国なんだ.(ちなみにこの言葉はシンガポールの言葉らしい).過去のひどい仕打ちも許してくれるタイの人のために自分も世界の平和のために,貢献しなくてはいけないと強く感じる.それが今の時代を生きる我々ができるNever Forgetであるのだから.
世界平和の塔
自他平等碑
自と他は一枚の紙の表裏のように
常に分けることのできない一つ
絶対に分けてはならない一つ
2017年11月29日
小さな力で合っても平和のために生きたい.そう思わせてくれる小さな塔であった.
17時前 JEATH戦争博物館を後にする
少し迷った後,自転車屋で自転車を返し,その向かいのバーで飲む.マスターのおばちゃんから,”自転車を返す時にあなたが見えたから来てくれるようにおまじないをかけたの”と言われ,なんて素敵な人なんだと思う.丁寧にメニューの説明を英語でしてくれた.
素敵なバーだ.まだ明るかったので,お店の準備をしており,いくつもの風船を飾ろうとしていたのだが,その風船が割れるたびにあまりの音の大きさにビビった(笑).
なんだか忘れたが,すごくおいしかった気がする.
18時前 店を後にする.
辺りはすっかり暗くなっている.再度コンビニのATMでお金をおろし,暗くて怖いのバイタクのおっさんに送ってもらい宿に帰る.バイタクのおっちゃんは優しく接してくれた.なんていい町なんだ.カンチャナブリー.
幸せな気分と,日本軍が昔したひどいことを空想しながら眠る.微力かもしれない.だけど許してくれるタイの人々のために平和のために尽くしたいと思う.
For Give But Never Forget.
多くの兵士が70年近く前に亡くなった土地今はへいわな土地でそんなことを思いながら眠る.